法人の理念(基本方針)と歴史
はじめに
法人の理念(基本方針)と歴史
はじめに
社会福祉法人ヘルプ協会は、1981年に「伊丹ヘルプ協会を設立し、翌年からホームヘルプサービスの事業を開始したのが始まりです。2000年に在宅複合型施設「ぐろ~りあ」を開設、在宅複合型の事業を運営する社会福祉法人に発展・移行しました。
法人設立にあたっては、「非営利・協同・共生」を柱に据えて人々が必要とする福祉サービスの提供を趣意としました。
社会福祉法人ヘルプ協会はすべての人々が協同し、共に生きる”新しい福祉社会”を築くことを目的として、理念及び基本方針を次のように定めます。
理念
協同と信頼を基盤に人間の尊厳と人権をまもる
基本方針
- わたしたちは、利用者が生きる喜びを感じ、希望あふれる生活が送れるよう、最良のサービス提供に努めます
- わたしたちは、すべてのケアの場面において人権とプライバシーの尊重を徹底します
- わたしたちは、安全・安心を最優先した暮らしの支援に努めます
- わたしたちは、地域住民、利用者との連携を密にし、地域の一員としての役割を果たします
- わたしたちは、互いに信頼と思いやりをもって常に向上心を育み、働き甲斐のある職場づくりに努めます
1、伊丹地域における介護事業の開始・失業者闘争と結び仕事おこし
(1)伊丹地域の福祉をよくする活動
失業者を組織した全日本自由労働組合が全国に広がり、
伊丹でも 昭和26年に1000人の組合員を組織した全日本自由労働組合伊丹支部(以下、「伊丹支部」と言います)が結成されます。
初代委員長は、女性の「高井としを」さんです。彼女は、岐阜県の貧しい家に生まれ、12歳半ばで紡績会社に女工として働きに出ています。彼女は、細井和喜蔵氏の『女工哀史』の執筆を手伝いました。この本は二人の共作ともいわれています。
細井和喜蔵氏の死後、彼女は日雇い労働者をしながら五人の子どもをかかえて伊丹支部を結成します。そして、初代委員長となり、1000人の組合員の先頭に立って、日雇い保険の制度化、福祉を良くする闘いに奮闘しました。
(2)福祉の拠点づくり・診療所の 建設
全日自労伊丹支部は、伊丹市中野に敷地が約1500坪ほどある拠点を持っていました。そこには、就労者の寄合い場と組合事務所がありました。今は、ケアハイツいたみ・サンシティホール・サンシティ診療所になっています。
伊丹支部は仲間の健康管理のために、診療所を開設しました。診療所の開設にあたって伊丹の医師会に相談したところ、「日雇いが、医者を雇うのか」と驚いていました。
診療所は、白菊診療所と名づけられました。(現在は、サンシティ診療所となっています) 診療科目は内科、眼科.歯科でした。当時、就労者は、眼病・トラコーマの人が100名程いました。感染症等の予防や健康管理をすることで死亡する仲間が少なくなりました。
(3)老人住宅の建設
当時の就労者の多くは住む家が無く、廃校になった校舎や簡易な小屋に住んでいました。
タバコの不始末による火災で亡くなった方もおられました。不幸な事故を起こしてはならないと市との話し合いで老人住宅を作ることになりました。
老人の市営住宅です。20部屋でした。さらに、伊丹支部で働く女性たちは自前で保育所を作っていました。また、食堂・理髪店もあり、市内中に花を配ろうという目的で花畑もありました。
(4)死ぬまで仲間の面倒をみる。仲間の冥福を祈る
伊丹支部は亡くなられた仲間のために祠(ほこら)を作り冥福を祈っていました。毎年8月、亡くなった仲間の冥福を祈るのです。市長はじめ関係者と仲間の列席で、しめやかにとり行われていました。今は、祠はなくなって、サンシティ診療所の前に「一陽来復」と記名された記念碑が残っています。(※凶事の後には必ず吉事が回ってくるという意味です)
平成8年、緊急失業対策法の法律により失業対策事業は終息しました。それに伴い、全日自労伊丹支部は、白菊診療所を初めとする施設を市に寄付及び返上しました。
2、失業対策事業の受け皿と・仕事おこし
失業対策事業が終息することになって「伊丹中高年雇用福祉事業団」の設立と仕事おこしの運動が始まりました。
仕事おこしの運動の前に少し伊丹市の歴史を辿ります。
伊丹の町は、面積25㌔㎡、人口20万人弱の都市です。昔は、酒造り・植木の町でした。伊丹の造り酒屋は86軒(1841年)ありました。
やがて西宮で「宮水」が発見され、「灘の生一本」に押されて伊丹の酒はしだいに後退していきます。
植木では、ワシントンの桜が有名です。かつて伊丹の東野村で接ぎ木されました。植木・接ぎ木の技術が高いのです。その代表は南京桃です。
(5)伊丹は、工場・自衛隊・空港の町に
伊丹空港は、1939年に開港し、戦後13年間は、米軍の基地として利用されていました。
やがて「基地・空港と酒・植木の町」として全国に知られていきます。その後、伊丹は、田園都市に発展、空港が国際空港になっていきます。
そして、空港の騒音公害ひどくなって騒音反対闘争が始まります。「静かな空をかえせ」と11市の空港周辺の市に空港撤去運動が広がっていくのです。
国は、騒音公害の解決策の一つとして騒音対策の民家防音工事を始めました。
(6)石油危機による不況
1973年当時、経済情勢は、企業倒産、減量経営、人減らし、合理化の嵐が吹いていました。労働者の首切り・合理化反対闘争が活発になっていました。
市民の間では、「騒音公害反対・空港撤去」の住民運動、中小建設業者の間では「民家防音工事の仕事を地元の事業者によこせ」の運動が広がっていました。石油危機を口実に悪徳業者がトイレットペーパーなどの日常生活用品の買い占めに走り、品不足が生じた頃です。
(7)失業者をなくす町「伊丹」をめざし、失業者問題を正面に掲げる
騒音公害に反対し、地元の中小零細企業の振興と失業者・不安定労働者の雇用創出の運動は、決起集会に800名余が参加するなど、大きな市民運動になりました。
市民・業者・労働組合が手をつなぎ、伊丹の町から「失業者をなくす」仕事おこしの活動が始まりました。
伊丹支部は、「戦争と貧乏に反対・仲間を死ぬまで助け合う」のスローガンを掲げ、伊丹から失業者、不安定労働者を無くすために18単組の労働組合と地域住民で「伊丹雇用・失業対策協議会」を結成しました。
運輸省には「空港周辺の民家防音工事の仕事を失業者、不安定労働者にまわせ」とねばり強く交渉しました。運動が実り、空港周辺整備機構が受け皿を作れば、防音工事を発注すると約束したのです。
(8)事業体の受け皿づくり
事業の受け皿は議論の末、株式会社でなく事業協同組合が自分達に合っているとの結論になり、合意ができました。(1979年)
建築関係の一人親方を中心に30名が集まり建築業の事業協同組合を設立しました。空港周辺整備機構からの初めての受注は、2件の民家の防音工事でした。協同組合の強みを生かした協同受注でした。2年目には、年間4億円の売り上げとなりました。
利益金を社会に還元することは協同組合の設立時の約束でした。その基金を活用して、職業訓練校を創りました。科目は、建築課と造園課でした。
造園の科目を作ったのは、伊丹市に公園の管理と街路樹剪定の仕事を求める人々に優先発注を行うよう申し入れをしていたからです。
3、市民集会の中で、ホ-ムヘルパーの仕事を発見
仕事を求める市民集会では、集会に参加していたひとりの女性からホームヘルパーがこれからの必要な職業になると提案がありました。そして、ホームヘルパーとは、どの様な仕事なのか、2人の女性が職業訓練学校でホームヘルパー業務のノウハウを取得することになりました。
やがて、卒業した2人の女性を中心に10名が集まって、出資金を出し合って40万円でホームヘルプ事業を開始したのです。(1983年)これがヘルプ協会の始まりです。
(9)在宅介護の必要性を訴え、社会的公器と自己規定
当時、ホームヘルパーの仕事は、社会的に認知されていませんでした。仲居さんとかお手伝さんと勘違いされていました。在宅介護の本来の姿とは少し異なったケースが多くありました。
3年間ほどの試行錯誤の中で、粘り強く社会福祉協議会、自治会、老人会、病院・医院に在宅介護の必要性を訴え続けました。理解は徐々に広がり、仕事量も増えていきました。
ホームヘルパーの事業の指針は、営利事業でなくボランティアでもなく「いつでも・だれにでも・どこにでも」困っている高齢者・障がい者に手をさしのばし、決して断らない、「社会的公器」としての自己規定をしました。
この方針が、多くの市民に賛同を得ていきました。
その実績により1985年4月には伊丹市より介護事業の委託を受けることになりました。市民の支持と伊丹市の委託事業により介護の仕事が拡大し、ヘルパーの人数も100名を超え、事業高は1億円近くになって伊丹市の在宅介護の一翼をになう本格的なヘルプ事業となっていくのです。
(10)ヘルパー養成講座を開催・647名が修了
1996年にはホームヘルパー養成講座を高齢者協同組合伊丹支部と共催で始めました。
講座は、地域の地区社協・自治会・老人会・婦人会・民生委員と結び伊丹の全小学校区、17小学校区で地域の協力を得て、地区の公民館などで開催しました。
受講生募集は自治会が回覧板を回してくれました。開校式では開催地域の自治会長さんが「ヘルパーを養成し、困っている人たちを支え、助ける自治会をつくりたい」とご挨拶いただきました。1996年から3ヶ年で16回開催し、647名の修了者を出すことができました。ホームヘルパーの養成講座では自治会との連携がより強まったと思います。
「社会福祉法人の設立」
4、自分達の施設を持ちたい
(11)「ぐろ~りあ」の建設
介護保険が実施されれば、在宅介護だけの仕事ではヘルプ協会は、社会的に淘汰される。施設と在宅を組み合わせて地域福祉を創らなければ、いままでの苦労が水の泡になるのではないかとの危機感が支えてくださる人々や職員に広がりました。(1996年)自分達の力で自分達の施設を持ちたいという思いが高まり、市に施設を持ちたいので協力してほしいと粘り強く訴え続け、3年が経ちました。
その結果、伊丹市から最低5000万円の資金があれば、社会福祉法人の設立を支援する。土地については、市から提供(貸与)していただけることになって、現在の「ぐろ~りあ」が建設されることになったのです。
(12)在宅複合型施設「ぐろーりあ」の誕生
伊丹市から施設運営を「ヘルプ協会」にと判断していただいたのは、150人のヘルパーが15年間、地域・市民に支えられて非営利・協同で在宅介護を続けてきた重みと実績を評価して戴いたからに他なりません。
建設資金は、各班のヘルパーが中心になって、市民や伊丹支部の仲間たち600名から短期間で2700万円の寄付を集めることができました。なによりもヘルパーたちが元気づいたのは、緑丘地区社協からの多額な寄付でした。多くの人々の熱い思いが施設の建設と結びついたのです。
そして2000年2月、在宅複合型施設「ぐろ~りあ」が北園の地域で誕生しました。その機能は、ショートステイ、デイサービス、訪問介護、居宅介護、在宅介護支援センターの5つです。
(13)社会からの預かり物と規定
社会福祉法人ヘルプ協会 ぐろ~りあは、その所有を「社会からの預かり物」、つまり市民・仲間・税金によって建てられた施設であると規定しました。竣工の時には、その記念として表玄関に「共生と協同をめざし『ぐろ~りあ』の建設に尽くされた人々の名を刻み永遠の感謝の意を表する」と、ご寄付をいただいた方全員の名前を名盤につけさせていただきました。
名前の「ぐろ~りあ」は一般公募し決定しました。その意味は「グレーにならず、ブルーにならず、グローリアス(輝かしい)な今日を送り、明日を希望に満ちて迎えたい」という気持ちがこもっています。
5、市民と一体となる地域福祉の拠点として
ヘルプ協会は、「非営利・協同・共生」の協同組合福祉によって地域に福祉事業所を築いています。
(14)地域住民と共に、施設・在宅の枠を越えて地域福祉事業所を開設
西部地域には、小規模作業所「のっおん」を開設し、障がい者の就労支援活動を始めました。(2002年4月開設)
就労支援の内容は、伊丹市の公園清掃、除草を始め工場及び居宅の清掃、
剪定等の仕事と豆腐工房「豆ばたけ」で豆腐の生産と販売をしています。
南部地域には、地域福祉事業所「ぶる~む」を開設しました。(2004年3月開設)デイサービスと訪問介護事業所の開設によって伊丹南部地域の高齢者、障がい者の暮らしを支える役割を果たしています。
東部地域では、ぐろ~りあ東野サ-ビス付き高齢者向け住宅を開設しました。(2012年10月開設)デイホームタカさん家、共同生活援助ホ-ム友紀、東野ケアプランセンターを併設し高齢者、障がい者の総合事業所としての機能をもつ拠点施設として地域で期待されています。
(15)地域との連携による各種イベントで交流
ヘルプ協会の基本理念は、「協働と信頼を基盤に人間の尊厳と人権を守る」です。この理念は地域市民と共に創り得たものです。
地域との絆は、毎年各種の祭りや研修会、地域懇談会等を開催することでいっそう強くなっています。
(16)協同組合間協同の原則に沿って社会福祉事業を展開
協同組合を母体とする社会福祉法人、「社会福祉法人協同の苑」、「社会福祉法人ジェイエイ兵庫六甲」、「社会福祉法人ヘルプ協会」が、質の高い人材を育成し、経営の効率化を図ることを目的として、事業連携を強め、協同組合としての原理、原則に沿った活動を始めました。(2013年)
全国に例のない画期的なことです。このことは、伊丹の地に協同組合福祉が根づく先駆となっています。