2016年発刊 No.17 みんなのたより

2016年2月10日発行 社会福祉法人ヘルプ協会
伊丹市北園1丁目19-1
電話:072-777-0765
メール:gloria@helkyo.or.jp
ホームページ:http://heikyo.com/
FAX:072-777-0704
発行責任者:細岡雄二

「ヘルプ協会」で三五年、ご支援を賜りました皆さま方に
感謝の気持ちを込めて、ここに厚く御礼申し上げます
社会福祉法人ヘルプ協会 前理事長 木谷勝彦

退任にあたり、ご挨拶申し上げます。
このたび、三五年あまり勤めさせていただいた「ヘルプ協会」理事長職を退任いたしました。長いようで短く感じられた理事長職の間、山あり谷ありで様々な経験をさせていただきました。数多くの方と知りあい、多くのことを教えていただき、喜びも悲しみも共有してきました。

そして、今様々なことが、感慨深く私の頭の中をかけめぐっております。
◆失業者不安定労働者が集まり、「仕事よこせ」の求職運動に参加。
◆全日自分が中心となった業者闘争の中で雇われない働き方の発見、事業団(労働者協同組合の前身)を結成。
◆港騒音公害に反対する住民運動の中で民家防音工事の仕事を受注。
◆失業者闘争の中で、一人の女性が「ホームヘルパーの仕事をやったらどうか、ホームヘルパーは、社会に必要とされる職業になる」との提案。
◆職業訓練学校でホームヘルプサービスの知識と実技を取得し、一〇名の女性と四〇万円の出資金でヘルプ協会を立ち上げ。
◆二〇〇〇年二月に「社会福祉法人ヘルプ協会在宅複合型施設ぐろーりあ」を北園の地域で建設。

これらの仕事を進める中では、理事長職としてどのように役割を果たし、様々なことにどのように対処してゆくか常に考え、悩み、自問自答しながら進めてまいりました。また、楽しいことうれしいことはそのままに喜び、悲しいこと、憤慨することなどはしっかりと話し合ってきました。
地域の皆さま、職員と共に汗をかいて地域福祉の取組みを進めた日々はいちばんの楽しい思い出となっています。

後任の中村一夫さんは、当法人の創設者の一人です。地域福祉に豊富な知識と経験を持っておられ、長年施設長をしていただいた、心やさしいすぐれた人です。
私は、人生の後半に入っています。体力・気力・能力が続く限リヘルブ協会の発展と地域福祉活動を続けていきます。
これまでご指導ご鞭撻いただいた多くの皆様に心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

二〇一五年一二月八日

ヘルプ協会の歴史=前史=

社会福祉法人ヘルプ協会の理事長職を退任するにあたって、戦後間もないころの伊丹地域における失業者闘争から全日本自由労働者組合伊丹支部が組織されたこと。運動の中、仕事を求める市民集会でホームヘルプサービスが提案されて事業として始め、ヘルプ協会が設立されて今日に至るまでの歴史を整理しました。
歴史をたどることで、これからの人社会、そしてヘルプ協会の運営にあたってのお役に立てればと思います。

=社会福祉法人ヘルプ協会の生い立ち=

1.伊丹地域における介護事業の開始・失業者闘争と結び仕事おこし

=伊丹地域の福祉をよくする活動=
失業者を組織した全日本自由労働組合が全国に広がり、伊丹でも昭和二六年に一〇〇〇人の組合員を組織した全日本自由労働組合伊丹支部(以下、「伊丹支部」と言います)が結成されます。
初代委員長は、女性の「高井としを」さんです。彼女は、岐阜県の貧しい家に生まれ、十二歳半ばで紡績会社に女工として働きに出ています。彼女は、細井和喜蔵氏の『女工哀史』の執筆を手伝いました。この本は二人の共作ともいわれています。
細井和喜蔵氏の死後、彼女は日雇い労働者をしながら五人の子どもをかかえて伊丹支部を結成します。
そして、初代委員長となり、一〇〇○人の組合員の先頭に立って、日雇い保険の制度化、福祉を良くする闘いに奮闘しました。

=福祉の拠点づくり・診療所の建設=
全日自労伊丹支部は、伊丹市中野敷地が約一五〇〇坪ほどある拠点を持っていました。そこには、就労者の寄合い場と組合事務所がありました。今は、ケアハイツいたみ・サンシティホール・サンシティ診療所になっています。
伊丹支部は仲間の健康管理のために、診療所を開設しました。診療所の開設にあたって伊丹の医師会に相談したところ、「日雇いが、医者を雇うのか」と驚いていました。診療所は、白菊診療所と名づけられました。(現在は、サンシティ診療所となっています)診療科目は内科、眼科、歯科でした。当時、就労者は、眼病・トラコーマの人が一〇○名程いました。感染症等の予防や健康管理をすることで死亡する仲間が少なくなりました。

=老人住宅の建設=
当時の就労者の多くは住む家が無く、廃校になった校舎や簡易な小屋に住んでいました。タバコの不始末による火災で亡くなった方もおられました。不幸な事故を起こしてはならないと市との話し合いで老人住宅を作ることになりました。
老人の市営住宅です。二〇部屋でした。さらに、伊丹支部で働く女性たちは自前で保育所を作っていました。また、食堂・理髪店もあり、市内中に花を配ろうという目的で花畑もありました。

=死ぬまで仲間の面倒をみる。仲間の冥福を祈る=
伊丹支部は亡くなられた仲間のために祠(ほこら)を作り冥福を祈っていました。毎年8月、亡くなった仲間の冥福を祈るのです。市長はじ関係者と仲間の列席で、しめやかにとり行われていました。今は、祠はなくなって、サンシティ診療所の前に「一陽来復」と記名された記念碑が残っています。(※凶事の後には必ず吉事が回ってくるという意味です)
平成八年、緊急失業対策法の法律により失業対策事業は終息しました。それに伴い、全日自労伊丹支部は、白菊診療所を初めとする施設を市に寄付及び返上しました。

二、失業対策事業の受け皿と仕事おこし

失業対策事業が終息することになって「伊丹中高年雇用福祉事業団」の設立と仕事おこしの運動が始まりました。
仕事おこしの運動の前に少し伊丹市の歴史を辿ります。

伊丹の町は、面積二五*m2、人口二〇万人弱の都市です。昔は、酒造り・植木の町でした。伊丹の造り酒屋は八六軒(一八四一年)ありました。
やがて西宮で「宮水」が発見され、「灘の生一本」に押されて伊丹の酒はしだいに後退していきます。
植木では、ワシントンの桜が有名です。かつて伊丹の東野村で接ぎ木されました。植木・接ぎ木の技術が高いのです。その代表は南京桃です。

=伊丹は、工場・自衛隊空港の町に=
伊丹空港は、一九三九年に開港し、戦後一三年間は、米軍の基地として利用されていました。
やがて「基地・空港と酒・植木の町」として全国に知られていきます。その後、伊丹は、田園都市に発展、空港が国際空港になっていきます。そして、空港の騒音公害ひどくなって騒音反対闘争が始まります。「静かな空をかえせ」と十一市の空港周辺の市に空港撤去運動が広がっていくのです。
国は、騒音公害の解決策の一つとして騒音対策の民家防音工事を始めました。

=石油危機による不況=
一九七三年当時、経済情勢は、企業倒産、減量経営、人減らし、合理化の嵐が吹いていました。労働者の首切り・合理化反対闘争が活発になっていました。
市民の間では、「騒音公害反対・空港撤去」の住民運動、中小建設業者の間では「民家防音工事の仕事を地元の事業者によこせ」の運動が広がっていました。石油危機を口実に悪徳業者がトイレットペーパーなどの日常生活用品の買い占めに走り、品不足が生じた頃です。

=失業者をなくす町「伊丹」をめざし、失業者問題を正面に掲げる=
騒音公害に反対し、地元の中小零細企業の振興と失業者・不安定労働者の雇用創出の運動は、決起集会に八〇〇名余が参加するなど、大きな市民運動になりました。
市民・業者・労働組合が手をつなぎ、伊丹の町から「失業者をなくす」仕事おこしの活動が始まりました。
伊丹支部は、「戦争と貧乏に反対・仲間を死ぬまで助け合う」のスローガンを掲げ、伊丹から失業者、不安定労働者を無くすために一八単組の労働組合と地域住民で「伊丹雇用・失業対策協議会」を結成しました。運輸省には「空港周辺の民家防音工事の仕事を失業者、不安定労働者にまわせ」とねばり強く交渉しました。運動が実り、空港周辺整備機構が受け皿を作れば、防音工事を発注すると約束したのです。

=事業体の受け皿づくり=
事業の受け皿は議論の末、株式会社でなく事業協同組合が自分達に合っているとの結論になり、合意ができました。(一九七九年)
建築関係の一人親方を中心に三〇名が集まり建築業の事業協同組合を設立しました。空港周辺整備機構からの初めての受注は、二件の民家の防音工事でした。協同組合の強みを生かし協同受注でした。二年目には、年間四億円の売り上げとなりました。利益金を社会に還元することは協同組合の設立時の約束でした。その基金を活用して、職業訓練校を創りました。科目は、建築課と造園課でした。造園の科目を作ったのは、伊丹市に公園の管理と街路樹剪定の仕事を求める人々に優先発注を行うよう申し入れをしていたからです。

三、市民集会の中で、ホームヘルパーの仕事を発見

仕事を求める市民集会では、集会に参加していたひとりの女性からホームヘルパーがこれからの必要な職業になると提案がありました。そして、ホームヘルパーとは、どの様な仕事なのか、二人の女性が職業訓練学校でホームヘルパー業務のノウハウを取得することになりました。
やがて、卒業した二人の女性を中心に一〇名が集まって、出資金を出し合って四〇万円でホームヘルプ事業を開始したのです。(一九八三年)これがヘルプ協会の始まりです。

=在宅介護の必要性を訴え、社会的公器と自己規定=
当時、ホームヘルパーの仕事は、社会的に認知されていませんでした。仲居さんとかお手伝さんと勘違いされていました。在宅介護の本来の姿とは少し異なったケースが多くありました。
三年間ほどの試行錯誤の中で、粘り強く社会福祉協議会、自治会、老人会、病院・医院に在宅介護の必要性を訴え続けました。理解は徐々に広がり、仕事量も増えていきました。
ホームヘルパーの事業の指針は、営利事業でなくボランティアでもなく「いつでも・だれにでも・どこにでも」困っている高齢者・障がい者に手をさしのばし、決して断らない、「社会的公器」としての自己規定をしました。この方針が、多くの市民に賛同を得ていきました。その実績により一九八五年四月には伊丹市より介護事業の委託を受けることになりました。市民の支持と伊丹市の委託事業により介護の仕事が拡大し、ヘルパーの人数も一〇〇名を超え、事業高は一億円近くになって伊丹市の在宅介護の一翼をになう本格的なヘルプ事業となっていくのです。

=ヘルパー養成講座を開催・六四七名が修了=
一九九六年にはホームヘルパー養成講座を高齢者協同組合伊丹支部と共催で始めました。
講座は、地域の地区社協・自治会・老人会・婦人会・民生委員と結び伊丹の全小学校区、一七小学校区で地域の協力を得て、地区の公民館などで開催しました。
受講生募集は自治会が回覧板を回してくれました。開校式では開催地域の自治会長さんが「ヘルパーを養成し、困っている人たちを支え、助ける自治会をつくりたい」とご挨拶いただきました。一九九六年から三ヶ年で一六回開催し、六四七名の修了者を出すことができました。ホームヘルパーの養成講座では自治会との連携がより強まったと思います。

ヘルプ協会の歴史=社会福祉法人の設立=

四、自分達の施設を持ちたい。

介護保険が実施されれば、在宅介護付を集めることができました。なによりだけの仕事ではヘルプ協会は、社会的もヘルパーたちが元気づいたのは、緑丘に淘汰される。施設と在宅を組み合わ地区社協からの多額な寄付でした。多く地域福祉を創らなければ、いままの人々の熱い思いが施設の建設と結びでの苦労が水の泡になるのではないついたのです。かとの危機感が支えてくださる人々や職員に広がりました。(一九九六年)自分達の力で自分達の施設を持ちたいという思いが高まり、市に施設を持ちたいので協力してほしいと粘り強く訴え続け、三年が経ちました。
その結果、伊丹市から最低五〇〇〇万円の資金があれば、社会福祉法人の設立を支援する。土地については、市から提供(貸与)していただけることになって、現在の「ぐろ〜りあ」が建設されることになったのです。

=在宅複合型施設「ぐろーりあ」の誕生=
伊丹市から施設運営を「ヘルプ協会」にと判断していただいたのは、一五〇人のヘルパーが一五年間、地域・市民に支えられて非営利・協同で在宅介護を続けてきた重みと実績を評価して戴いたからに他なりません。建設資金は、各班のヘルパーが中心になって、市民や伊丹支部の仲間たち六○○名から短期間で二七〇〇万円の寄付を集めることが出来ました。なによりもヘルパーたちが元気づいたのは、緑丘地区社協からの多額の寄付でした。多くの人々の熱い思いが施設の建設と結びついたのです。
そして二〇〇〇年二月、在宅複合型施設「ぐろ~りあ」が北園の地域で誕生しました。その機能は、ショートステイ、デイサービス、訪問介護、居宅介護、在宅介護支援センターの五つです。

=社会からの預かり物と規定=
社会福祉法人ヘルプ協会ぐろ〜りあは、その所有を「社会からの預かり物」、つまり市民・仲間・税金によって建てられた施設であると規定しました。竣工の時には、その記念として表玄関に「共生協同をめざし『ぐろ~りあ』の建設に尽くされた人々の名を刻み永遠の感謝の意を表する」と、ご寄付をいただいた方全員の名前を名盤につけさせていただきました。
名前の「ぐろ~りあ」は一般公募し決定しました。その意味は「グレーにならず、ブルーにならず、グローリアス(輝かしい)な今日を送り、明日を希望に満「ちて迎えたい」という気持ちがこもっています。

五、市民と一体となる地域福祉の拠点として

ヘルプ協会は、「非営利・協同・共生」の協同組合福祉によって地域に福祉事業所を築いています。
=地域住民と共に、施設・在宅の枠を越えて地域福祉事業所を開設=
西部地域には、小規模作業所「のっおん」を開設し、障がい者の就労支援活動を始めました。(二〇〇二年四月開設)
就労支援の内容は、伊丹市の公園清掃、除草を始め工場及び居宅の清掃、剪定等の仕事と豆腐工房「豆ばたけ」で豆腐の生産と販売をしています。南部地域には、地域福祉事業所「ぶる~む」を開設しました。(二〇〇四年三月開設)デイサービスと訪問介護事業所の開設によって伊丹南部地域の高齢者、障がい者の暮らしを支える役割を果たしています。
東部地域では、ぐろ〜りあ東野サービス付き高齢者向け住宅を開設しました。(二〇一二年一〇月開設)
デイホームタカさん家、共同生活援助ホーム友紀、東野ケアプランセンタす。ーを併設し高齢者、障がい者の総合事業所としての機能をもつ拠点施設として地域で期待されています。

=地域との連携による各種イベントで交流=
ヘルプ協会の基本理念は、「協働と信頼を基盤に人間の尊厳と人権を守る」です。この理念は地域市民と共に創り得たものです。
地域との絆は、毎年各種の祭りや研修会、地域懇談会等を開催することでいっそう強くなっています。

=協同組合間協同の原則に沿って社会福祉事業を展開=
協同組合を母体とする社会福祉法人、「社会福祉法人協同の苑」、「社会福祉法人ジェイエイ兵庫六甲」、「社会福祉法人ヘルプ協会」が、質の高い人材を育成し、経営の効率化を図ることを目的として、事業連携を強め、協同組合としての原理、原則に沿った活動を始めました。(二〇1111)
全国に例のない画期的なことです。このことは、伊丹の地に協同組合福祉が根づく先駆となっています。

デイサービス ぐろ〜りあ

平成28年 初詣

年も明け、ご利用者の皆様のお元気なご挨拶で新年が始まったぐろ〜りあデイサービスは、一月七日から一三日までの五日間、臂岡天満宮へ初詣に出かけました。
今年の期間中は良いお天気に恵まれ、風邪に悩まされているご利用者様も少なく、ほぼ予定通り参拝することができました。
日頃はおしゃべりに花を咲かせるにぎやかな利用者様も拝殿に手を合わせる時は神妙な面持ちで願い事をされていました。
「皆様がお元気で一年を楽しくお過ごしいただけますように」とスタッフも参拝し、お伊勢さんが見えるとい穴あきの岩を覗き、「お伊勢さん見えないよ」と言いながら、神妙ながらもワイワイと楽しく参拝をしました。

デイホームタカさん家

新年、「タカさん家」の利用者様にはお変わりなく、
お元気に新しい一年が始まりました。一月の第一週目、学問の神様でも有名な「臂
「岡天満宮」に初詣に出掛けました。
午後からの短い時間ではありましたが、連日暖かく、気分転換の外出としてはうってつけの日和でした。
参道をゆっくり歩き、水舎にて手を清め、鳥居を潜り、神殿でそれぞれに願い事をされていました。
さて何を願っておられたのかは、秘密とのこと。

デイサービス ぶる~む

新しい年が始まりました。ぶる~むデイサービスは、一月四日から猪名野神社へ初詣に行ってきました。
一人暮らしの方は遠くまで外出する機会が少なく、デイサービスで初詣に行けることを大変喜んでくださいました。お参りをしたあと、おみくじをひかれる方もいました。
今年もみなさまにとって幸せな日々となりますように。
お正月の遊びといえば、凧揚げ、カルタなどがありますが、ぶる~むでは羽子板を楽しみました。ご利用者同士で対戦をし、負けた人には色紙で作った眉毛や唇を顔に貼りあって楽しく過ごしました。

就労継続支援B型事業所 のっくおん

ボーリング大会で寒さを吹き飛ばしました!

一月十六日(土)、のっくおんは恒例の「一月レクリエーション活動」として、ボーリング大会をラウンドワンで開催しました。
この日は寒さが厳しい中にも、利用者さん、職員合わせて総勢二〇名以上が参加してくれました。
まずは、開会の第一投球者を自薦で選出し、ゴールデンスペシャルボールを使って、第一投!を合図に一斉にスタートしました。
参加者は、手慣れた華麗なフォームで投球したり両手で転がしたり、
中には砲丸投法のような投球でボールが右のガーターから飛び出し、左のガーターへ行ったりもしました。
それぞれの個性あふれる投球にはみんなが笑ったり、感心したりでにぎやかなひとときになりました。
ゲームは、外の寒さも吹き飛ばして白熱し、気が付けばアッという間に予定の二ゲームが終了してしまいまさかの三ゲームへ突入!
ストライクが決まった時は拍手とともにこのポーズ!

ボーリング大会の終了後は、イオンモール伊丹昆陽店へ移動して昼食会です。
食事はフードコートで、みんなが好みのものを注文して食事をしました。
食事会もにぎやかに、お腹いっぱい食べて楽しい一日を過ごしました。

ぐろ~りあ東野

新年会

ぐろ~りあ東野サービス付き高齢者向け住宅では、一月一〇日(日)、入居者様からのご要望で、新年会を行いました。みんなでお菓子などを持ち寄って、コーヒーを飲みながらの集いです。
会には入居者様のほとんどが参加されました。各テーブルに分かれ、職員も一緒になって談笑、その後は恒例カラオケ大会になりました。
入居者様それぞれが自分の十八番を気持ち良く歌っておられました。
れ最後はみんなで合唱し、歌い終わった後のみなさんのお顔が生きいきとさていて、とても印象的でした。入居者様とたくさん話しが出来てとても充実した時間を過ごすことが出来ました。

簡単にできる自分だけの1人鍋を作ってみませんか?

今回は、寒い冬に不足しがちな栄養素である「マグネシウム」、「葉酸」がたっぷり入った1人鍋用レシピをご紹介いたします。

*マグネシウム*硬直した筋肉・血管を元に戻すのに使われるため不足しがちになります。
(多く含む食材…油揚げ、納豆、ひじき、のりなど)
*葉酸*身体を温めるための酸素を届けるのに使われるため不足しがちになります。
(多く含む食材・・・ほうれん草、小松菜、春菊など)

=簡単ごまみそ鍋=

材料(1人分)
・豚バラ肉 40g
・水 400ml
・油揚げ 1枚
・ほうれん草 1束
・みそ 10g
・すりごま 大さじ1
・人参 20g
・ごぼう 20g
・みりん 大さじ1
[鍋だし]エバラプチッと鍋(寄せ鍋)1個

作り方
①豚バラ・油揚げほうれん草は食べやすい大きさに切る。人参、ごぼうは皮をむいてピーラーでうすくスライスする。
②鍋にだしを合わせ、スライスした人参、ごぼうを入れ、沸騰させる。残りの食材を加えて煮立てば完成!

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